「知らない?」弥生は、彼の答えに思わず笑いそうになった。前日には、彼が「僕の許可がなければ、他の会社はお前の会社に投資することはできないぞ」と言っていたのに、今度は突然投資し、その理由が「知らない」とは?弥生は軽く笑い、冷たい声で言い放った。「知らないなら、余計なことはしないで」その言葉に、瑛介は眉を軽くひそめた。「僕が投資すると決めた。それが何か?」弥生は、彼の蒼白い唇と汗の滲む額をじっと見つめ、静かに言った。「別に。損失を恐れないのね。なら好きにすれば」そう言い残し、弥生は背を向けて歩き出した。瑛介は彼女の背中を静かに見つめ、唇を固く引き結びながら何も言わなかった。しかし、少し歩いたところで、弥生は何かを思い出し、振り返って瑛介に視線を向けた。「おばあちゃんは?」彼女が立ち去った後、視線を落としていた瑛介はゆっくりと目を上げ、薄く笑った。「どうした?会いたいのか?」「そう。会いたい」弥生は頷いた。「一度会いたい」昨日、あの言葉を口にしたことをすぐ後悔した。瑛介とどういう関係になったとしても、おばあちゃんはやはり彼女にとって特別な存在だから。しかし、瑛介は鼻で笑った。「もう会う必要はない」弥生は眉をひそめ、彼の顔をじっと見つめた。「どうして?」「理由はない」瑛介は冷たく突き放すように言った。「話が済んだなら、帰ってくれないか?」だが弥生はその場を離れず、一歩前に進んだ。「どうして会う必要がないのか、教えて。私が言ったこと、おばあちゃんに伝えちゃったの?」瑛介の呼吸がやや乱れた。「......そう、全部伝えたよ」その言葉に、弥生は眉をひそめた。彼が「ばあちゃんに伝えるよ」と言った時、彼女はただの脅しだと思っていた。おばあちゃんが失望し、怒り、健康を損なうようなことを彼が理解しないはずがないと思ったからだ。しかし、彼が「全て伝えた」と言うとは。おかしい。弥生は目を細め、瑛介をじっくり見つめた。「何か隠しているんじゃない?」瑛介は急に足を止め、ドア枠に手をつき、大きな音を立てた。そのまま顔に怒りを浮かべ、弥生を睨みつけながら言った。「離婚してからはもう関係ないって言ったのは誰だ?」弥生は言葉に詰まった。「もう終わったか?」瑛介は冷た
一時間後、医師は弥生に診断書を手渡した。「重度の胃病を抱えているそうです。意識を失って倒れた主な原因は胃病の発作ですが、これに加えて栄養不足と過度のストレスも影響していると思います」弥生は医師から診断書を受け取り、それを暫く見つめていた。栄養不足や過度のストレスといったことが瑛介にあったなんて、想像もできなかった。彼女のイメージでは、瑛介はいつも何でもやり抜ける完璧な存在だった。それに、彼が病気になることや苦しむ姿など、一度も見たことがなかった。病室のほうを一瞥して、弥生は医師に尋ねた。「これからはどうすればいいのでしょうか?入院が必要なのでしょうか?」「患者さんの状態では、しばらく入院して休養することをお勧めします。さもなければ、このままではより悪化するでしょう」「そうですか。なぜここまで重い病気になってしまったのでしょうかね?」「不規則な食生活や過度な飲酒などが原因で胃に負担がかかることがあるでしょう。ところで、彼氏さんはお酒を飲まれますかね?」「彼氏さん」という言葉に一瞬眉をひそめたが、弥生は説明するのも面倒だと思い直し、頷いた。「ええ、かなり飲んでいます」実際に彼が飲んでいる姿を見たことはなかったが、友人の千恵の話では、彼女が瑛介と知り合ったのはバーだった。そして、千恵は彼のためにお酒を飲むことを鍛えようとした結果、胃を壊してしまったらしい。酒豪の千恵でさえ胃病になったのだから、瑛介の状態は推して知るべしだった。「それなら、これからは必ずお酒を控えさせるよう注意してくださいね」「はい、彼に伝えます」「では、入院手続きを済ませてください。お願いします」「ありがとうございました」弥生は瑛介の入院手続きをするために受付へ向かった。しかし、手続き中に弥生は財布を忘れたことに気づいた。電子マネーだけでは、入院費用をまかなえなかった。仕方なく、彼が昏倒した際に自分のバッグに入れておいた私物と財布を取り出した。そして、中から見覚えのあるキャッシュカードを選び取った。以前、ホテルで彼の財布を見た時、カードの配置が昔と全く変わっていないことに気づいていた弥生は、パスワードもおそらく変わっていないと推測した。もし変更されていたら......「こちらに、暗証番号を」弥生は少し身をか
ただ、彼が自分をここまで追い詰めた理由が弥生は分からない。今になって、ホテルで瑛介が自分との会話に不機嫌を示していた理由をようやく理解した。あの時、彼はすでに限界ギリギリの状態だったのだろう。そう思うと、弥生は深いため息をつき、スマホを取り出して博紀に電話をかけた。電話を受けた博紀は、慎重な声で尋ねた。「社長、何があったのですか?まさかお二人......揉めたりしてないですよね?」「違うわ。揉めてなんかない。ただ......今病院にいるの」「病院?」博紀は驚きの声を上げた。「どうして病院に?社長、宮崎さんと昔は関係があったにしても、そこまで大事にする必要はないでしょう。もしかして何かあったんですか?」彼が言いたいことを言い終えるまで待ってから、弥生は仕方なく口を開いた。「最後まで話を聞いてくれる?」「はい、教えてください」彼女が病院にいると聞いて、博紀は気が気でなかった。もしこれで投資が撤回されたら、会社は投資がなかった時よりもさらに厳しい状況に追い込まれるからだ。「揉めたりはしてない。ただ、瑛介が倒れたから、病院に連れてきただけよ」「宮崎さんが倒れた?!どうして急に倒れたんですか?まさか......」「やめてほしいわ。その言い方、まるで私が何か悪いことをしたみたいじゃない」博紀は苦笑してごまかし、言葉を濁した。「彼の助手はもう帰った?」「ええ、30分ほど前に帰りました」それもそうだ、こんなに時間が経っていれば、すでに帰っているだろう。「分かった。それなら、あとは自分で何とかするから」電話を切った後、弥生はふと何かを思い出し、自分のバッグを探った。そして、瑛介のスマホを取り出した。彼女は以前のパスワードを入力しようとしたが、その手をふと止めた。瑛介のスマホのロック画面のパスワードは、自分の誕生日だった。それは、付き合っていた頃に彼女が無理やり変更させたものだ。今はすでに5年が経過している。銀行カードのパスワードが変わっていないのは理解できるとしても、スマホのパスワードは違う。そこにはもっと特別な意味が込められているはずだから、彼はとっくに変更しているはずだ。そう考えた弥生は、スマホを元に戻そうとした。しかし、考え直し、もう一度手に取ってしまった。彼女は瑛介のス
健司が病院に到着すると、弥生が病室の入口で待っているのが遠くから見えた。弥生の姿を目にした健司は、先日うっかり指先が彼女に触れ、そのうえ彼女の驚くほどの美貌を目の当たりにしたことを思い出し、思わず顔が赤くなり、照れてしまった。彼女の近くに行く頃には、顔も耳も真っ赤になっていた健司の姿が、弥生の目に映った。彼女は特に気にすることもなく、外の寒さで赤くなったのだろうと思いながら、歩み寄って瑛介のスマホや財布、部屋のカードキーなどを健司に手渡した。「これを後で瑛介に渡してもらえる?」健司は状況が分からないまま、彼女が渡すものを次々と受け取るだけだった。最後に弥生が手ぶらになったのを見て、彼はようやく気づいた。「もうお帰りになるんですか?」弥生は頷いた。「ええ、帰るわ」「えっ?」健司は、自分がこんなに早く来たことを後悔した。もし瑛介が目を覚まして、弥生が自分のせいで帰ったと知ったら、間違いなく叱られるだろう。そう思った健司は急いで引き止めた。「どうかもう少しだけここで待ってもらえませんか?僕は来たばかりで、社長の状況もまだよく分かりませんし、できれば目を覚ますまで待っていただけると大変助かります」しかし、弥生はすでに帰る準備万端だった。「瑛介は、胃の病気を発症したのよ。入院手続きは済ませたから、あとは付き添いを用意すればいいわ。今は点滴を受けていて、あと2本残っているから、なくなりそうになったらカウンターに行くか、ナースコールを押して交換してもらって。他には特に問題はないわ。ただ、しばらく入院が必要ね」健司はその場に立ち尽くした。彼女は必要なことを一通りすべて伝え終えてしまった。「じゃあ、私はこれで。頼むわね」弥生は健司の肩を軽く叩き、そのまま病室を後にした。健司は彼女を引き止める暇もなく、遠ざかる彼女の背中を見送るしかなかった。そして、姿が完全に見えなくなると、ようやく病室の中に戻った。病室に入ると、そこには他の患者もいて、健司は思わず息を呑んだ。なんと、弥生が用意したのは相部屋だったのだ。潔癖症の瑛介が他人と同室になることを許容するはずがない。急いで最奥の瑛介のベッドに向かい、昏睡状態の彼を確認し、胸を撫で下ろした。幸いまだ彼は目を覚ましていない。本当は彼が目を覚ます前に個室
入院という言葉を耳にした瑛介は、眉をひそめた。「入院はしないぞ」「社長、どうかお聞きください。やはり入院したほうがいいです。もしここが気に入らないのであれば、すぐに個室に転院の手続きをしますが」健司がそう言い終えたとき、瑛介は冷たい目で彼を見つめていた。その視線に気づいた健司は、すぐに口をつぐんだ。しばらくしてから、健司は小声で言った。「社長、ご自身の病気を軽く考えておられるかもしれませんが、今日は霧島さんの目の前で倒れたんですよ」それまで冷静だった瑛介の表情が、その一言で変わった。「何?」彼の瞳が鋭くなり、声には威圧感が増した。「誰の前で倒れたって?」瑛介の気迫に圧倒された健司は、たじたじになりながら答えた。「霧島さんですよ......」瑛介は思わず尋ねた。「彼女は帰らなかったのか?」あの時、確かに彼女に帰るように言い、その姿を見送ったはずだ。それなのに、いつ戻ってきたのだろう?健司はその場にいなかったため、瑛介の言葉の意味を理解できなかった。「どういう意味ですか、社長?」「俺を病院に運んだのは君じゃないのか?」瑛介は直接尋ねた。「違いますよ」健司は首を振りながら説明した。「霧島さんが社長のスマホで僕に電話をかけてきて、呼び出されたんです」なるほど、そういうことか。しかし、自分は彼女が出て行くところを見たはずだ。それなのに、なぜ戻ってきたのか?何かを思いついたように、瑛介は急に身を起こした。「彼女は今どこにいる?」「僕が来たのを見届けてから帰りましたよ」健司は隠そうともせず、率直に事実を伝えた。すると、瑛介の表情はさらに暗くなった。「帰っただと?止めなかったのか?」「止めたって無駄ですよ」健司は指をいじりながら、不満げに答えた。「霧島さんとは親しくないですし、止めるなんてできません。それに、彼女はずいぶん長い間あなたを看病していたんですよ。費用の支払いも手続きも全部やってくれて、そろそろ休みたかったんじゃないでしょうか?」その話を聞いても、瑛介は黙ったまま、薄い唇を引き結んで考え込んだ。しばらくして、彼は横になりながら命じた。「点滴を外せ」健司はその言葉の意味に気づくと、慌てて止めた。「それはダメですよ、社長。この点滴はまだ終
彼女は自分を気にかけている。この事実を、瑛介はすでに分かっていた。彼女は冷淡に振る舞い、厳しい言葉を口にしたが......結局、去った後でまた戻ってきた。自分を病院に運び、健司が来るまでずっと待っていてくれた。これがどういうことか?彼女が自分を気にかけていること、そして自分の身に何かあったら困ると思っていることだろう。つまり、彼女がまだ自分を気にかけているなら、自分にまだ望みがあるということだ。彼女は心から自分を完全に切り捨てられたわけではない。本来なら、自分の病状を彼女に知られたくはなかった。しかし、今回の出来事で意外にもいくつかの事実を知るようになった。考えれば、自分にとっていいことでもあるのではないか?一方、健司は廊下で電話をかけていた。弥生の電話番号を知らなかった彼は、まず博紀に連絡を取り、彼女の番号を聞き出した。博紀は何の躊躇もなく番号を教え、こう付け加えた。「今度、一緒にご飯でもしましょう」番号を手にした健司は、すぐに弥生へ電話をかけた。ちょうどその頃、弥生は車を呼んでいて、混雑する時間帯のためにかなり待たされていたところだった。出発しようとした矢先、電話が鳴り出した。「もしもし?」「霧島さん、助けてくださいよ」電話を取ると、受話器の向こうから健司の必死な叫び声が聞こえた。弥生は思わずスマホを耳から遠ざけ、数秒後にまた耳元に戻した。「はい?」彼とはこれまでに二度会っただけだったが、声を覚えていたためすぐに彼だと分かった。「高山です」健司はスマホを握りしめながら何度も頷いているようだった。「何かあったの?」彼の様子が尋常ではなかったため、弥生は運転手に少し待つようジェスチャーを送り、話を続けた。「霧島さん、社長が目を覚まされました」「そう、それは良かったけど」弥生は淡々と答えた。「でも、点滴を受けるのをやめたいと言っていて、さらに退院すると言い出しているんです」その言葉に、弥生の眉がきゅっと寄った。あれほど病状が深刻だというのに、点滴も受けず、退院しようとするなんて?まったく、自分の体が何でできていると思っているのか?「霧島さん、私も説得しようとしたのですが、全く聞いてくれません。もうお帰りになりましたか?もし可能でしたら、助
健司は数秒間呆然としていたが、すぐに駆け寄った。「社長」5分後瑛介は不機嫌そうな顔をして病室のベッドに戻っていた。その横には、呆れた表情を浮かべた看護師が立っている。「まったく、病気なのにどうしてそんなに言うことを聞かないの?点滴中なのに針を抜くなんて、そんなに血を流して傷口は痛くないわけ?」「すみません、本当に申し訳ありません」健司は横で瑛介に代わって何度も頭を下げた。「ご迷惑をおかけしました」看護師は、しおれたように座っている瑛介を一瞥し、釘を刺すように言った。「もう針を抜いたりしないでくださいよ。病院はただでさえ忙しいんですから」そう言って、腰を振りながら病室を出て行った。看護師が去った後、病室は静けさを取り戻した。先ほどの騒ぎを目の当たりにした同室の人たちの視線が瑛介に集まった。「あのお兄ちゃん、たくさん血を流してたよ」子供は母親に身を寄せながら、瑛介を指差した。子供の母親は子供を抱き寄せながら答えた。「それはね、あの人が言うことを聞かずに、自分で針を抜いちゃったからなのよ。でも、遥斗はちゃんとお利口にしていれば大丈夫だからね」「うん、ママ。僕、ちゃんとお利口にするよ!」健司は気まずそうに頭をかき、瑛介に向かって言った。「社長、もし本当に入院が嫌なら、南市に戻りませんか?それから家庭医を呼んで診てもらいながら、しっかり身体を調整していきましょう」「南市に戻る」と聞いた瞬間、瑛介は冷たく彼を睨みつけ、そのまま無表情でベッドに横たわり、目を閉じた。しかし、彼が自ら横になったのを見て、健司は心の中で少し安心した。入院する気になったのか?それなら良い。とりあえず病院で休養してくれれば。一方、弥生は会社に戻って、博紀と今日の投資の件について話し合うつもりだったが、会社に入ると、ソファに座って自分を待っている弘次の姿を目にした。彼女が戻るのを見るや、弘次は立ち上がり、彼女のバッグを受け取った。「おかえり。どうだった?」そう言いながら、弘次は彼女の髪をさりげなく整えた。その仕草はとても親密に見えるものだった。近くでその様子を見ていた博紀は、一瞬、驚いたような表情を浮かべたが、すぐに視線をそらし、何も見なかったふりをした。弥生は少し居心地の悪さを感じたものの、笑顔で答
弥生は思わず反論した。「私は未練があるわけじゃない。ただ仕事をしているだけ。会社を運営するには資金が必要だし、成長のためには投資を見つけなければならない。博紀は以前、大企業の管理職をしていたし、宮崎グループは確かに最良の選択だわ。それに、私はもう過去を手放したし、気にしていない。ただのビジネスの協力関係にすぎないじゃない。私にとって悪いことはないわ。将来、早川で仕事をしている時に彼と会うことがあったとしても、それで逃げたりするつもりはないわ」「本当にそうか?悪いことはないのか?」「ないわ」「じゃあ、約束してくれ」「何を?」「僕と一緒になることを」弘次の端正な顔から、初めて穏やかな笑みが消えていた。弥生は呆然と彼を見つめた。まさか彼がこんなにも急に詰め寄ってくるとは思わなかった。「君が......」「さっき車の中で、博紀から電話が来る前に君が言おうとしていたことは何だったんだ?君は何も影響がないと言ったけど、今の気持ちはその時と比べて変わっていないのか?」弥生は黙り込んだ。なぜなら、反論できないことに気づいたからだ。その時感じていたことが、今の彼女の胸の内にも重なっていた。当時、彼女は弘次にこう伝えようとしていた。「もしあなたが望むなら、私はあなたと一緒になってみたい」しかし、今はその思いが薄れていることに気づいた。その理由は分からない。ただ、時間が経てば考えが変わることもあるのだろう。「弥生」黙り込む彼女を見て、弘次は再び促した。「どう?」弥生は言葉が見つからず、視線を落とし、少し落ち込んだ声で言った。「あなたの言う通り、確かに私は影響を受けている。でも、その影響はただ時間が変えたものであって、あなたとは関係ない」「僕とも関係ない?」弘次は薄く笑いながら問い返した。「本当にそう思っているのか?」「そうよ。他に何があるの?」次の瞬間、弥生の顎は優しく持ち上げられた。弘次は彼女の顎を軽く掴み、その顔を自分のほうへ向かせた。暗がりの中で、彼の温かな唇が彼女の額にそっと触れた。弥生は驚き、抵抗しようとしたが、手首をしっかりと掴まれて動けなかった。顔を上げると、弘次の瞳に浮かぶ傷ついたような、不安げな表情が目に飛び込んできた。弥生は初めて見た、彼の目にあ
弥生は瑛介に手を握られた瞬間、彼の手の冷たさにびっくりした。まるで氷を握っていたかのような冷たさ。彼女の温かい手首とあまりにも温度差があり、思わず小さく身震いしてしまった。そのまま無意識に、弥生は瑛介のやや青白い顔をじっと見つめた。二人の手が触れ合ったことで、当然ながら瑛介も彼女の反応に気づいた。彼女が座った途端、彼はすぐに手を引っ込めた。乗務員が去った後、弥生は何事もなかったかのように言った。「さっきは通さないって言ったくせに?」瑛介は不機嫌そうな表情を浮かべたが、黙ったままだった。だが、心の中では健司の作戦が案外悪くなかったと思っていた。彼がわざと拒絶する態度をとることで、弥生はかえって「彼が病気を隠しているのでは?」と疑い、警戒するどころか、むしろ彼に近づく可能性が高くなるという作戦だ。結果として、彼の狙い通りになった。案の定、少しの沈黙の後、弥生が口を開いた。「退院手続き、ちゃんと済ませたの?」「ちゃんとしたぞ。他に選択肢があったか?」彼の口調は棘があったが、弥生も今回は腹を立てず、落ち着いた声で返した。「もし完全に治ってないなら、再入院も悪くないんじゃない?無理しないで」その言葉に、瑛介は彼女をじっと見つめた。「俺がどうしようと、君が気にすることか?」弥生は微笑んだ。「気にするわよ。だって君は私たちの会社の投資家だもの」瑛介の目が一瞬で暗くなり、唇の血色もさらに悪くなった。弥生は彼の手の冷たさを思い出し、すれ違った客室乗務員に声をかけた。「すみません、ブランケットをいただけますか?」乗務員はすぐにブランケットを持ってきてくれた。弥生はそれを受け取ると、自分には使わず、瑛介の上にふわりとかけた。彼は困惑した顔で彼女を見た。「寒いんでしょ?使って」瑛介は即座に反論した。「いや、寒くはないよ」「ちゃんと使って」「必要ない。取ってくれ」弥生は眉を上げた。「取らないわ」そう言い終えると、彼女はそのまま瑛介に背を向け、会話を打ち切った。瑛介はむっとした顔で座ったままだったが、彼女の手がブランケットを引くことはなく、彼もそれを払いのけることはしなかった。彼はそこまで厚着をしていなかったため、ブランケットがあると少し温かく感じた。
「どうした?ファーストクラスに来たら、僕が何かするとでも思ったのか?」弥生は冷静にチケットをしまいながら答えた。「ただ節約したいだけよ。今、会社を始めたばかりなのを知ってるでしょ?」その言葉を聞いて、瑛介の眉がさらに深く寄せられた。「僕が投資しただろう?」「確かに投資は受けたけど、まだ軌道には乗っていないから」彼女はしっかりと言い訳を用意していたらしい。しばらくの沈黙の後、瑛介は鼻で笑った。「そうか」それ以上何も言わず、彼は目を閉じた。顔色は相変わらず悪く、唇も蒼白だった。もし彼が意地を張らなければ、今日すぐに南市へ向かう必要はなかった。まだ完全に回復していないのに、こんな無理をするのは彼自身の選択だ。まあ、これで少しは自分の限界を思い知るだろう。ファーストクラスの乗客には優先搭乗の権利がある。しかし弥生にはそれがないため、一般の列に並ぶしかなかった。こうして二人は別々に搭乗することになった。瑛介の後ろについていた健司は、彼の殺気立った雰囲気に圧倒されながらも、提案した。「社長、ご安心ください。機内で私が霧島さんと席を交換します」だが、瑛介の機嫌は依然として最悪だった。健司はさらに説得を続けた。「社長、霧島さんがエコノミー席を取ったのはむしろ好都合ですよ。もし彼女がファーストクラスを買っていたとしても、社長の隣とは限りません。でも、私は違います。私が彼女と席を交換すれば、彼女は社長の隣になります。悪くないと思いませんか?」その言葉を聞いて、瑛介はしばし考え込んだ。そして最終的に納得した。瑛介はじっと健司を見つめた。健司は、彼が何か文句を言うかと思い、身構えたが、次に聞こえたのは軽い咳払いだった。「悪くない。でも、彼女をどう説得するかが問題だ」「社長、そこは私に任せてください」健司の保証があったとはいえ、瑛介は完全に安心はできなかった。とはいえ、少なくとも飛行機に乗る前ほどのイライラは消えていた。彼の体調はまだ万全ではなかった。退院できたとはいえ、長時間の移動は負担だった。感情が高ぶると胃の痛みも悪化してしまうはずだ。午後、弥生のメッセージを受け取った時、瑛介はちょうど薬を飲み終えたばかりだった。その直後に出発したため、車の中では背中に冷や汗
もし瑛介の顔色がそれほど悪くなく、彼女への態度もそれほど拒絶的でなかったなら、弥生は疑うこともなかっただろう。だが今の瑛介はどこか不自然だった。それに、健司も同じだった。そう考えると、弥生は唇を引き結び、静かに言った。「私がどこに座るか、君に決められる筋合いはないわ。忘れたの?これは取引なの。私は後ろに座るから」そう言い終えると、瑛介の指示を全く無視して、弥生は車の後部座席に乗り込んだ。車内は静寂に包まれた。彼女が座った後、健司は瑛介の顔色をこっそり伺い、少し眉を上げながら小声で言った。「社長......」瑛介は何も言わなかったが、顔色は明らかに悪かった。弥生は彼より先に口を開いた。「お願いします。出発しましょう」「......はい」車が動き出した後、弥生は隣の瑛介の様子を窺った。だが、彼は明らかに彼女を避けるように体を窓側に向け、後頭部だけを見せていた。これで完全に、彼の表情を読むことはできなくなった。もともと彼の顔色や些細な動きから、彼の体調が悪化していないか確認しようとしていたのに、これでは何も分からない。だが、もう数日も療養していたのだから大丈夫だろうと弥生は思った。空港に到着した時、弥生の携帯に弘次からの電話が入った。「南市に行くのか?」弘次は冷静に話しているようだったが、その呼吸は微かに乱れていた。まるで走ってきたばかりのように、息が整っていない。弥生はそれに気づいていたが、表情を変えずに淡々と答えた。「ええ、ちょっと行ってくるわ。明日には帰るから」横でその電話を聞いていた瑛介は、眉をひそめた。携帯の向こう側で、しばらく沈黙が続いた後、弘次が再び口を開いた。「彼と一緒に行くのか?」「ええ」「行く理由を聞いてもいいか?」弥生は後ろを振り返ることなく、落ち着いた声で答えた。「南市に行かないといけない大事な用があるの」それ以上、詳細は語らなかった。それを聞いた弘次は、彼女の意図を悟ったのか、それ以上問い詰めることはしなかった。「......分かった。気をつけて。帰ってきたら迎えに行くよ」彼女は即座に断った。「大丈夫よ。戻ったらそのまま会社に行くつもりだから、迎えは必要ないわ」「なんでいつもそう拒むんだ?」弘次の呼吸は少
「そうなの?」着替えにそんなに慌てる必要がある?弥生は眉間に皺を寄せた。もしかして、また吐血したのでは?でも、それはおかしい。ここ数日で明らかに体調は良くなっていたはずだ。確かに彼の入院期間は長かったし、今日が退院日ではないのも事実だが、彼女が退院を促したわけではない。瑛介が自分で意地を張って退院すると言い出したのだ。だから、わざわざ引き止める気も弥生にはなかった。だが、もし本当にまた吐血していたら......弥生は少し後悔した。こんなことなら、もう少し様子を見てから話すべきだったかもしれない。今朝の言葉が彼を刺激したのかもしれない。彼女は躊躇わず、寝室へ向かおうとした。しかし、後ろから健司が慌てて止めようとしていた。弥生は眉をひそめ、ドアノブに手をかけようとした。その瞬間、寝室のドアがすっと開いた。着替えを終えた瑛介が、ちょうど彼女の前に立ちはだかった。弥生は彼をじっと見つめた。瑛介はそこに立ち、冷たい表情のまま、鋭い目で彼女を見下ろしていた。「何をしている?」「あの......体調は大丈夫なの?」弥生は彼の顔を細かく観察し、何か異常がないか探るような視線を向けた。彼女の視線が自分の体を行き来するのを感じ、瑛介は健司と一瞬目を合わせ、それから無表情で部屋を出ようとした。「何もない」数歩進んでから、彼は振り返った。「おばあちゃんに会いに行くんじゃないのか?」弥生は唇を引き結んだ。「本当に大丈夫?もし体がしんどいなら、あと二日くらい待ってもいいわよ」「必要ない」瑛介は彼女の提案を即座に拒否した。意地を張っているのかもしれないが、弥生にはそれを深く探る余裕はなかった。瑛介はすでに部屋を出て行ったのだ。健司は気まずそうに促した。「霧島さん、行きましょう」そう言うと、彼は先に荷物を持って部屋を出た。弥生も仕方なく、彼の後に続いた。車に乗る際、彼女は最初、助手席に座ろうとした。だが、ふと以前の出来事を思い出した。東区の競馬場で、弥生が助手席に座ったせいで瑛介が駄々をこね、出発できなかったことがあった。状況が状況だけに、今日は余計なことをせず、後部座席に座ろうとした。しかし、ちょうど腰をかがめた時だった。「前に座れ」瑛介の冷たい声が
健司はその場に立ち尽くしたまま、しばらくしてから小声で尋ねた。「社長、本当に退院手続きをするんですか?まだお体のほうは完全に回復していませんよ」その言葉を聞いた途端、瑛介の顔色が一気に険しくなった。「弥生がこんな状態の僕に退院手続きをしろって言ったんだぞ」健司は何度か瞬きをし、それから言った。「いやいや、それは社長ご自身が言ったことじゃないですか。霧島さんはそんなこと、一言も言ってませんよ」「それに、今日もし社長が『どうして僕に食事を持ってくるんだ?』って聞かなかったら、霧島さんは今日、本当の理由を話すつもりはなかったでしょう」話を聞けば聞くほど、瑛介の顔色はどんどん暗くなっていく。「じゃあ、明日は?あさっては?」「社長、僕から言わせてもらうとですね、霧島さんにずっと会いたかったなら、意地になっても、わざわざ自分から話すべきじゃなかったと思いますよ。人って、時には物事をはっきりさせずに曖昧にしておく方がいい時もあるんです」「そもそも、社長が追いかけているのは霧島さんですよね。そんなに何でも明確にしようとしてたら、彼女を追いかけ続けることなんてできないでしょう?」ここ数日で、健司はすっかり瑛介と弥生の微妙な関係に慣れてしまい、こういう話もできるようになっていた。なぜなら、瑛介は彼と弥生の関係について、有益な助言であれば怒らないと分かっていたからだ。案の定、瑛介はしばらく沈黙したまま考え込んだ。健司は、彼が話を聞き入れたと確信し、内心ちょっとした達成感を抱いた。もしかすると、女性との関係に関しては、自分の方が社長より経験豊富なのかもしれない。午後、弥生は約束通り、瑛介が滞在したホテルの下に到着した。到着したものの、彼女は中には入らず、ホテルのエントランスで客用の長椅子に腰掛けて待つことにした。明日飛行機で戻るつもりだったため、荷物はほとんど持っていなかった。二人の子どものことは、一時的に千恵に頼んだ。最近はあまり連絡を取っていなかったが、弥生が助けを求めると、千恵はすぐに引き受け、彼女に自分の用事に専念するよう言ってくれた。それにより、以前のわだかまりも多少解けたように思えた。弥生はスマホを取り出し、時間を確認した。約束の時間より少し早く着いていた。彼女はさらに二分ほど待った
瑛介は眉がをひそめた。「どういうこと?」話がここまで進んだ以上、弥生は隠すつもりもなかった。何日も続いていたことだからだ。彼女は瑛介の前に歩み寄り、静かに言った。「この数日間で、体調はだいぶ良くなったんじゃない?」瑛介は唇を結び、沈黙したまま、彼女が次に何を言い出すかを待っていた。しばらくして、弥生はようやく口を開いた。「おばあちゃんに会いたいの」その言葉を聞いて、瑛介の目が細められた。「それで?」「だから、この数日間君に食事を運んで、手助けをしたのは、おばあちゃんに会わせてほしいから」瑛介は彼女をしばらくじっと見つめたあと、笑い出した。なるほど、確かにあの日、弥生が泣き、洗面所から出てきた後、彼女はまるで別人のように変わっていた。わざわざ見舞いに来て、さらに食事まで作って持って来てくれるなんて。この数日間の彼女の行動に、瑛介は彼女の性格が少し変わったのかと思っていたが、最初から目的があったということか。何かを思い出したように、瑛介は尋ねた。「もしおばあちゃんのことがなかったら、君はこの数日間、食事なんて作らなかっただろう?」弥生は冷静なまま彼を見つめた。「もう食事もできるようになって、体もだいぶ良くなったんだから、そこまで追及する必要はないでしょ」「ふっ」瑛介は冷笑を浮かべた。「君にとって、僕は一体どんな存在なんだ?おばあちゃんに会いたいなら、頼めば良いだろう?僕が断ると思ったのか?」弥生は目を伏せた。「君が断らないという保証がどこにあるの?」当時おばあちゃんが亡くなった時、そばにいることができなかった。でも、何年も経った今なら、せめて墓前に行って、一目見ることくらいは許されるはずだと弥生は考えていた。瑛介は少し苛立っていた。彼女がこの数日間してきたことが、すべて取引のためだったと知ると、胸が締め付けられるように感じた。無駄に期待していた自分が馬鹿みたいだ。そう思うと、瑛介は落胆し、目を閉じた。なるほど、だから毎日やって来ても、一言も多く話してくれなかったわけだ。少し考えたあと、彼は決断した。「退院手続きをしてくれ。午後に連れて行くよ」その言葉を聞いても、弥生はその場から動かなかった。動かない様子を見て、瑛介は目を開き、深く落ち着
この鋭い言葉が、一日中瑛介の心を冷たくさせた。完全に暗くなる頃、ようやく弥生が姿を現した。病室のベッドに座っていた瑛介は、すごく不機嫌だった。弥生が自分の前に座るのを見て、瑛介は低い声で問いかけた。「なんでこんなに遅かったんだ?」それを聞いても、弥生は返事をせず、ただ冷ややかに瑛介を一瞥した後、淡々と言った。「道が混まないとでも思っているの?食事を作るのにも時間がかかるでしょ?」彼女の言葉を聞いて、瑛介は何も言えなくなった。しばらくして、弥生が食べ物を彼に渡すと、瑛介は沈んだ声で言った。「本当は、君が来てくれるだけでいいんだ。食事まで作らなくても......」「私が作りたかったわけではないわ」弥生の冷ややかな言葉に、瑛介の表情がわずかに変わった。「じゃあ、なぜ作った?」しかし弥生はその問いには答えず、ただ立ち上がって片付け始めた。背を向けたまま、まるで背中に目があるかのように彼に言った。「さっさと食べなさい」その言葉を聞き、瑛介は黙って食事を済ませた。片付けを終えた弥生は無表情のまま告げた。「明日また来るわ」そして、瑛介が何かを言う前に、早々と病室を後にした。残された瑛介の顔からは、期待が薄れていくのが見て取れた。傍にいた健司も、弥生がこんなにも淡々と、義務のようにやって来て、また早々と去っていくことに驚いていた。「彼女はなぜこんなことをするんだ?僕の病気のせいか?」瑛介が問いかけても、健司は何も答えられなかった。彼自身も、弥生の真意を掴めずにいたからだ。その後の数日間も、弥生は変わらず食事を運んできた。初めは流動食しか食べられなかった瑛介も、徐々に半固形の食事を口にできるようになった。そのたびに、弥生が作る料理も少しずつ変化していった。彼女が料理に気を配っていることは明らかだった。だが、その一方で、病室での態度は冷淡そのもの。まるで瑛介をただの患者として扱い、自分は決められた業務をこなす看護師であるかのようだった。最初はかすかに期待を抱いていた瑛介も、やがてその希望を捨てた。そして三日が過ぎ、四日目の朝、いつものように弥生が食事を持って来たが、瑛介は手をつけずにじっと座っていた。いつもなら時間が過ぎると弥生は「早く食べて」と促すが、今日は彼の方から先に口を開いた
「行きましょう、僕が案内するから」博紀は弥生に挨拶を済ませた後、皆を連れてその場を離れた。メガネをかけた青年は博紀の後ろをぴったりとついていきながら尋ねた。「香川さん、彼女は本当に社長なんですか?」さっきあれほど明確に説明したのに、また同じことを聞いてくるとは。博紀はベテランらしい観察で、青年の思いを一瞬で見抜いた。「なんだ?君は社長を狙ってたのか?」やはり予想通り、この言葉に青年の顔は一気に真っ赤になった。「そんなことはないです」「ハハハハ!」博紀は声を上げて笑いながら言った。「何を恥ずかしがっているんだ?好きなら求めればいい。俺が知る限り、社長はまだ独身だぞ」青年は一瞬驚いて目を輝かせたが、すぐにしょんぼりとうつむいた。「でも無理です。社長みたいな美人には到底釣り合いません。それに、社長はお金持ちですし......」博紀は彼の肩を軽く叩きながら言った。「おいおい、自分のことをよく分かっているのは感心だな。じゃあ今は仕事を頑張れ。将来成功したら、社長みたいな相手は無理でも、きっと素敵な人が見つかるさ」そんな会話をしながら、一行は歩いて去っていった。新しい会社ということもあり、処理待ちの仕事が山積みだった。昼過ぎになると、博紀が弥生を誘いに来て、近くのレストランで一緒に昼食を取ることになった。食事中、弥生のスマホが軽く振動した。彼女が画面を確認すると、健司からのメッセージだった。「報告です。社長は今日の昼食をちゃんと取られました」報告?ちゃんと取った?この言葉の響きに、弥生は思わず笑みを浮かべた。唇の端を上げながら、彼女は簡潔に返信を送った。「了解」病院では、健司のスマホが「ピン」という着信音を発した。その音に、瑛介はすぐさま目を向けた。「彼女、何て言った?」健司はメッセージを確認し、少し困惑しながら答えた。「返信はありましたけど......短いですね」その言葉に瑛介は手を伸ばした。「見せろ」健司は仕方なくスマホを差し出した。瑛介は弥生からの短い返信を見るなり、眉を深く寄せた。「短いってレベルじゃないな」健司は唇を引き結び、何も言えなかった。瑛介はスマホを投げ返し、不機嫌そうにソファにもたれ込んだ。空気が重くなる中、
病院を出た弥生は、そのまま会社へ向かった。渋滞のため到着が少し遅れてしまったが、昨日会ったあのメガネをかけた青年とまた鉢合わせた。弥生を見つけた青年は、すぐに照れくさそうな笑顔を浮かべ、さらに自分から手を差し出してきた。「こんにちは。どうぞよろしく」弥生は手を伸ばして軽く握手を交わした。「昨日は面接を受けに来たと思っていましたが、まさかもうここで働いていたとは。ところで、どうしてこの小さな会社を選んだんですか?もしかして、宮崎グループが投資することを事前に知っていたんですか?」「事前に?」弥生は軽く笑って答えた。「完全に事前に知っていたわけではないけれど、少なくともあなたよりは早く知ったよ」「それはそうですね。私は求人情報で初めて知りましたし」エレベーター内には他にも数人がいたが、ほとんどが無言で、会話を交わす様子はなかった。メガネの青年以外に弥生が顔見知りと思える人はいなかった。どうやら昨日同じエレベーターに乗っていた他の人たちは、みんな不採用になったらしい。エレベーターが到着し、扉が開くと、弥生はそのまま左側の廊下に進んだ。すると、彼女に続いてメガネの青年や他の人たちもついてきた。しばらく歩いた後、弥生は不思議に思い立ち止まり、振り返って彼らに尋ねた。「なぜ私について来るの?」メガネの青年はメガネを押し上げ、気恥ずかしそうに笑いながら言った。「今日が初出勤で、場所がわからないので、とりあえずついてきました」どうやら、彼らは彼女を社員だと思い込み、一緒にオフィスに行こうとしていたようだ。彼女についていけば仕事場に辿り着けると思ったのだろう。実際、彼女についていけばオフィスには行けるのだが、それは社員用ではなく、彼女個人のオフィスだ。状況を把握した弥生が方向転換し、正しい場所へ案内しようとしたちょうどその時、側廊から博紀が姿を現した。博紀は弥生に気づくと、反射的に声をかけた。「社長、おはようございます」メガネの青年と他の人たちは驚いた。社長?誰が社長?彼らの顔には一様に困惑の表情が浮かんでいた。博紀は弥生に挨拶を終えた後、彼女の後ろにいる人たちに気づき、訝しげに尋ねた。「どうしてこちら側に来ているんですか?オフィスは反対側ですよ」メガネの青年は指で弥生を示